随分前から、「キャラクターメイキングって何?」とか「萌えって何?」とか言い続けてきている私です。同じような事を今までも書いてきているので、
「なに、あんたまだそんなこと言ってたの?」
って思われる方も多いと思います。
…そうです、まだそんなことを言ってるんです(笑)
何故なら私は
「読者(受身)だけではないから」
「自分の絵にいわゆる今流行りの萌え要素がない事を承知しているから」
「それでもなおかつ、この時代でまだ創作を続けたいと思っているから」
です。
「今」の時代にアマチュアとはいえ創作を続け、作品を何らかの形として残そうと思っている以上、やはり自分の中にわだかまっていることにはきちんと折り合いを付けておかないと、この先進むことが出来ないな、とずっと考えていたんです。
だから長い間、ぐだぐだと考えつづけて今に至ってしまったと。
同人に対するモチベーションがガタ落ちになったのは、サイトをいじる(正確にはNucleusをいじる)のが楽しいから、という要因のほかに、「現在の」同人誌界(というよりヲタク諸君の嗜好?)における「流行」に自分の絵柄等がそぐわないと感じたから、というのもあるんですよね(むしろそっちの要因の方が大きかったのかも)。
描けば描くほど、人が遠のく気がしてならないんです。イベントでも参加する毎にスペースに立ち寄って下さる方の数が減っている状態です。
…さすがにそうなってくると、モチベーションを維持するのが難しくなってくるわけで…。だんだん自分の気持ちも(同人から)離れてきたかなぁって感じていたんです。
「なに、あんたまだそんなこと言ってたの?」
って思われる方も多いと思います。
…そうです、まだそんなことを言ってるんです(笑)
何故なら私は
「読者(受身)だけではないから」
「自分の絵にいわゆる今流行りの萌え要素がない事を承知しているから」
「それでもなおかつ、この時代でまだ創作を続けたいと思っているから」
です。
「今」の時代にアマチュアとはいえ創作を続け、作品を何らかの形として残そうと思っている以上、やはり自分の中にわだかまっていることにはきちんと折り合いを付けておかないと、この先進むことが出来ないな、とずっと考えていたんです。
だから長い間、ぐだぐだと考えつづけて今に至ってしまったと。
同人に対するモチベーションがガタ落ちになったのは、サイトをいじる(正確にはNucleusをいじる)のが楽しいから、という要因のほかに、「現在の」同人誌界(というよりヲタク諸君の嗜好?)における「流行」に自分の絵柄等がそぐわないと感じたから、というのもあるんですよね(むしろそっちの要因の方が大きかったのかも)。
描けば描くほど、人が遠のく気がしてならないんです。イベントでも参加する毎にスペースに立ち寄って下さる方の数が減っている状態です。
…さすがにそうなってくると、モチベーションを維持するのが難しくなってくるわけで…。だんだん自分の気持ちも(同人から)離れてきたかなぁって感じていたんです。
実際に私は古い人間だし(同人始めてかれこれ28年になろうとしてますし、「創作をはじめてから」はもっとたってる訳で)、それだけ長い時間が経過していると、愛好家の好みもどんどん変わってきますし、愛好家の全体的な作画レベルもアップしてますし、それが時代の流れにもなってくるわけで。
特に昨今は何を思ったのか(?)メディアがヲタク文化とやらを取り上げるようになって、猫も杓子もヲタクヲタクって言う世の中になっちゃって、益々「カテゴライズされたヲタク化」が進んでるような気がするんですよね。
それが良いにしろ悪いにしろ。(どちらとは私には言えません…)
で、結局その「カテゴライズ」の中に「キャラ属性」とかも入ってるんじゃないのかなぁっていう気がしています。
最近の人って、漫画等の(自分なりの)お気に入り判定をする時に、「絵柄」優先で考えるんでしょうか、「ストーリー」優先で考えるんでしょうか。
その辺すら、私には疑問に思えてしまってる部分なんです。
勿論、漫画やアニメにおいて、絵柄の好き嫌いという要素は大きいです。
どうしても苦手な絵柄の作品には食指が動かない、というのは当たり前のことだと思いますし、見てみようかな、と最初のきっかけになるものは、やはり絵柄である部分は大きいと思います。
でも裏を返して、絵柄が流行の、大多数に好まれている絵柄で、カテゴライズされた性格のキャラクターをそろえれば、「=面白い作品」か?というと、それも違うような気がするんです。
キャラクターが「生きる」のは、その「ストーリーの世界」なのだから、「世界」や「ストーリー」が面白くないと、キャラの魅力も半減してしまいますよね…。
どうしてそういう性格なのか?というのには、そのキャラクターの生い立ちや背景があって、そういう性格である理由や必然性があるものだと思います。
どうも私には、要素萌えっていう部分がないらしくて、「ツンデレ」萌えとか「眼鏡」萌えとか「獣耳」萌えっていうのが今一つわからなかったりするんです…。というかそもそも「萌え」自体が今一つ解ってないのかも(爆)
ツンデレのよさはやっぱり解らないんですが(笑)眼鏡や耳やメイドさん等のコスチュームに関して、可愛いなと思う気持ちは良く解るんですよ。私も好きですし。
でも、だからと言って何でもそういう「格好」をしたキャラを無条件で萌え対象としてみる、っていうのは出来なくて。
そのキャラを愛するのは、内面があってこそだと思うんですよね…。性格とか境遇とか振る舞いとか。そういうものに入れ込んで、愛するようになる。
外見だけでは私は駄目なんです。
(でも、そうやって愛するようになるから、すぐに冷めるということもなく、ずっと愛し続けられるんです。)
多分、そんなことだから、「萌え要素」が解らない、「萌え要素」を自分の絵にといりいれられないのだと自分でも思います。
でも…そんな風に考えて行ったら、何となく自分の中で答が出たような気がして。
単純に、自分は時代の流れに乗れなかったオールドオタク(笑)なんだなぁ、ということなんですが、私から見たら今のヲタクの皆さんは、いわばネオ・ヲタクなのだと(笑)そもそも作品の見方も違うのかも知れないですよね。
そう考えたところで、時代の流れに乗れてない自分の絵柄の作品は、やっぱり手にとってもらえないし見てもらえる可能性は低いままなのですが、気持ちの中で割り切れるんじゃないのかな、と。
それでも中には稀に、私の絵柄が好きだと言ってくださる方もいらっしゃいますし、面白かった、次も期待してますと言って下さる方も少数ながらいらっしゃいます。
自分は何もしなくても見て(買って)もらえる絵が描けるわけではないので、そういう方たちの存在がどんなに貴重で有難く、素人の作品を見てもらえるということがどんなにスゴイことなのかということも知っています。
そんな神様のような方たちに少しでも応えられるように、自分はせめてちゃんと「漫画」を描こうと思うし、そのとき出し得る力を出して描きたいと思ってます。
…それでいいんじゃないかなって。
絵で闘うことは出来ないけど、面白い話が書けるようになれれば、そっちの方がもしかしたら私は嬉しいかも知れないです。
絵は上手くなりたいけれど、自分の絵柄が嫌いな訳じゃないので(嫌いなら描いてませんよね…)、自分の絵を描きつつ、少しでも向上させていけるような努力をすればいいと思うし、何も無理に流行りの要素を入れる必要はないと思ったんです。
人に見てもらえなくても、自分が彼ら(自分のキャラクター)を一番愛しているので、自分が彼らを大切にすればいいんだ、と。
私の作品は、彼らとの対話によって成り立っています。
他の人から見たら、当然ですが、私が「作った」キャラクター、ですが、私にとって彼らは「生まれた」キャラクター。自分の子供というよりもむしろ分身であり家族であり、一番の友でもあります。
話を描(書)いてる時は、私が考えるというよりも彼らが動き語ってくれますし、常にすぐ近くに存在を感じています。
作品を描く時に、何かそういう、自分が感じている彼らの「息吹き」を、少しでも表現できたらいいなぁと思いながら描いています。
自分がお話を作るスタンスはこういうものだと自分が理解しているのだから、それを貫けばいいのかな、と思ったんですよね。何も時代に合わせて無理に変える必要もないのだと…変えようと思うとひずみが生じるんだろうと。
それで人に見てもらえないのであれば、それが自分の能力への正当な評価であると受け止めるべきだし、多分、その評価は正解なんだろうと思います。
でも、自画自賛だとわかっていても、自分が書く話を一番好きなのは、やっぱり自分だと思うんですよね。だから描き続けようって思えるんだろうなと。
結論。
これからも自分らしく、「萌えない絵描き」道を突き進みます!(爆)
特に昨今は何を思ったのか(?)メディアがヲタク文化とやらを取り上げるようになって、猫も杓子もヲタクヲタクって言う世の中になっちゃって、益々「カテゴライズされたヲタク化」が進んでるような気がするんですよね。
それが良いにしろ悪いにしろ。(どちらとは私には言えません…)
で、結局その「カテゴライズ」の中に「キャラ属性」とかも入ってるんじゃないのかなぁっていう気がしています。
最近の人って、漫画等の(自分なりの)お気に入り判定をする時に、「絵柄」優先で考えるんでしょうか、「ストーリー」優先で考えるんでしょうか。
その辺すら、私には疑問に思えてしまってる部分なんです。
勿論、漫画やアニメにおいて、絵柄の好き嫌いという要素は大きいです。
どうしても苦手な絵柄の作品には食指が動かない、というのは当たり前のことだと思いますし、見てみようかな、と最初のきっかけになるものは、やはり絵柄である部分は大きいと思います。
でも裏を返して、絵柄が流行の、大多数に好まれている絵柄で、カテゴライズされた性格のキャラクターをそろえれば、「=面白い作品」か?というと、それも違うような気がするんです。
キャラクターが「生きる」のは、その「ストーリーの世界」なのだから、「世界」や「ストーリー」が面白くないと、キャラの魅力も半減してしまいますよね…。
どうしてそういう性格なのか?というのには、そのキャラクターの生い立ちや背景があって、そういう性格である理由や必然性があるものだと思います。
どうも私には、要素萌えっていう部分がないらしくて、「ツンデレ」萌えとか「眼鏡」萌えとか「獣耳」萌えっていうのが今一つわからなかったりするんです…。というかそもそも「萌え」自体が今一つ解ってないのかも(爆)
ツンデレのよさはやっぱり解らないんですが(笑)眼鏡や耳やメイドさん等のコスチュームに関して、可愛いなと思う気持ちは良く解るんですよ。私も好きですし。
でも、だからと言って何でもそういう「格好」をしたキャラを無条件で萌え対象としてみる、っていうのは出来なくて。
そのキャラを愛するのは、内面があってこそだと思うんですよね…。性格とか境遇とか振る舞いとか。そういうものに入れ込んで、愛するようになる。
外見だけでは私は駄目なんです。
(でも、そうやって愛するようになるから、すぐに冷めるということもなく、ずっと愛し続けられるんです。)
多分、そんなことだから、「萌え要素」が解らない、「萌え要素」を自分の絵にといりいれられないのだと自分でも思います。
でも…そんな風に考えて行ったら、何となく自分の中で答が出たような気がして。
単純に、自分は時代の流れに乗れなかったオールドオタク(笑)なんだなぁ、ということなんですが、私から見たら今のヲタクの皆さんは、いわばネオ・ヲタクなのだと(笑)そもそも作品の見方も違うのかも知れないですよね。
そう考えたところで、時代の流れに乗れてない自分の絵柄の作品は、やっぱり手にとってもらえないし見てもらえる可能性は低いままなのですが、気持ちの中で割り切れるんじゃないのかな、と。
それでも中には稀に、私の絵柄が好きだと言ってくださる方もいらっしゃいますし、面白かった、次も期待してますと言って下さる方も少数ながらいらっしゃいます。
自分は何もしなくても見て(買って)もらえる絵が描けるわけではないので、そういう方たちの存在がどんなに貴重で有難く、素人の作品を見てもらえるということがどんなにスゴイことなのかということも知っています。
そんな神様のような方たちに少しでも応えられるように、自分はせめてちゃんと「漫画」を描こうと思うし、そのとき出し得る力を出して描きたいと思ってます。
…それでいいんじゃないかなって。
絵で闘うことは出来ないけど、面白い話が書けるようになれれば、そっちの方がもしかしたら私は嬉しいかも知れないです。
絵は上手くなりたいけれど、自分の絵柄が嫌いな訳じゃないので(嫌いなら描いてませんよね…)、自分の絵を描きつつ、少しでも向上させていけるような努力をすればいいと思うし、何も無理に流行りの要素を入れる必要はないと思ったんです。
人に見てもらえなくても、自分が彼ら(自分のキャラクター)を一番愛しているので、自分が彼らを大切にすればいいんだ、と。
私の作品は、彼らとの対話によって成り立っています。
他の人から見たら、当然ですが、私が「作った」キャラクター、ですが、私にとって彼らは「生まれた」キャラクター。自分の子供というよりもむしろ分身であり家族であり、一番の友でもあります。
話を描(書)いてる時は、私が考えるというよりも彼らが動き語ってくれますし、常にすぐ近くに存在を感じています。
作品を描く時に、何かそういう、自分が感じている彼らの「息吹き」を、少しでも表現できたらいいなぁと思いながら描いています。
自分がお話を作るスタンスはこういうものだと自分が理解しているのだから、それを貫けばいいのかな、と思ったんですよね。何も時代に合わせて無理に変える必要もないのだと…変えようと思うとひずみが生じるんだろうと。
それで人に見てもらえないのであれば、それが自分の能力への正当な評価であると受け止めるべきだし、多分、その評価は正解なんだろうと思います。
でも、自画自賛だとわかっていても、自分が書く話を一番好きなのは、やっぱり自分だと思うんですよね。だから描き続けようって思えるんだろうなと。
結論。
これからも自分らしく、「萌えない絵描き」道を突き進みます!(爆)