自由帳

「空気を読む」より「察する」人に

…なりたいものだと。

ネット上でのコミュニケーションの事などを考える時、常々思うことなので、一度雑記で書いてみたいなーと思ってた事なんですが。

ネットって、「人との距離感」が測りにくい場所ですね。

日本人は元来奥ゆかしい人種で、なかなか本意を表に出さなかったり、そもそも表舞台に出て来たがらない…という面があったと思います。その奥ゆかしさ故に、「曖昧な表現」の言葉も多い。
でも、その「曖昧な表現」をされた時に「相手の気持ちを察する」思いやりや洞察力があったのではないかと推測します(そうじゃなかったら、そんな曖昧な表現の言葉が多く生まれないはずですよねぇ)。

ところが、ネットの世界っていうのは、「相手が見えない」コミュニケーションが原則の世界ですよね。
インターネットが普及してから…なのかなぁ、「相手に対する思いやり」とか、「察すること」とかが薄れてしまって、非常に無作法で鈍感なコミュニケーションをする人が増えたような気がします。
本来は、相手が見えないからこそ、相手に対する思いやりや、察することが必要な気がするのですが…。

ネット上で匿名でやり取りをする場などが出来たからでしょうか、人に対する言葉遣いにも配慮がない人が出現しましたよね。
人を見下す人。常に人の揚げ足を取ることを考える人。人を否定することで自分の存在を維持する人。単純に、自分の知識や教養を誇示したいだけの人。
…なんだか荒んだ世界にしか見えないです。

個人的に、「ネットとリアル」という切り分けや表現が好きではありません。
何故なら、ネットも明らかにリアル(現実)だから。
言葉を発すれば、それに対してちゃんと生身の人間が応えてくれます。
対面こそしてはいないけれど、ちゃんと向こう側には生身の人間がいて、良いことには同意してくれたり、時には協力してくれるし、不用意な言葉には傷つき心を痛めます。
日常生活におけるバランスが崩れてはいけないと思うけれど(たとえば、ネットでの生活が日常生活の全て、というような)「人に接する時の配慮」は、対面の場合と同じでありたいと思います。

で、話を戻して、ネット上って、人との距離を測りにくいですよね。
少し前にも書いたことなんですが、ネット上って、ライフログを追いかけやすい環境が簡単に作れるんですよね。
こうやって日記や雑記を公開してること、それ自体が「ライフログを公開してる」事に繋がるし、自分という存在を表に出していることになります。

更にネットの流れは、どんどん「ライフログを追いかけやすいシステム」に流れているような気がします。
SNSだけじゃなく。今までのSNSの機能にプラスして、更に「その人の行動や趣味、嗜好を公開する」システムが盛り込まれていくような。
個人情報個人情報と声高に叫ばれる反面、こんなにも「個人」情報が流出しやすいシステムを開発している。
なんだか物凄い矛盾を感じますよね。

だからこそ、閲覧する側に立った時に気をつけたいことは、「不必要に相手のライフログを追いかけない事」だと思っています。
ライフログを追いかけて、いちいちそれに反応することは、それをされた側の受け取り方によっては、ストーキング行為になったりするのかなと思うこともあります。
何処まで追いかけるか、にもよりますけれども。

オンライン上で交流って、ほんのちょっとのことでバランスが崩れる気がするんです。
何度かやり取りをしてるうちに、「友達だから」と過干渉になりすぎたり。
過干渉になった挙句、プライベートのことも当たり前の顔をして根堀り葉堀り聞いてきたり。

人間誰しも数十年生きていれば、人に言いたくないことや言うべきでないことのひとつやふたつ、あるものだと思います。
もしも
「私は全ての友人に、包み隠さず私の全てを話せるわ!」
とかいう人がいたら、聖人か変人のどちらかだと思います(酷ぇ

だからこそ、触れて欲しくない部分に踏み込まれそうになった際、「言いよどむ事」や、日本人特有の「曖昧な表現」でぼやかす表現方法を取ったりするわけです。
そして、本来ならば問うた側の人は、言葉を濁した返答が返ってきたら、
「ああ、プライベートな事で、人に踏み込まれたくないことなんだな」
と察して、それ以上踏み込まない、というのが大人のマナーなんじゃないかな?って思うわけですよ。

ところが、最近そういうことに対して非常に察しが悪く、更にズカズカと踏み込んでこようとする人が多い気がするんですよねぇ…。
いい大人なんだから、踏み込んで欲しくないことくらい言葉尻から察しろよ、と言いたい。
ええ、物凄く言いたいです。
だけど相手が友達なだけに、それをはっきり言えない場合が多いのもまた事実です。
正直、精神的に物凄いストレスを感じます。

どんな人でもそうだと思いますが、残念ながら「何でも話せる、相談できる友達」というのは、本当に一握りなんじゃないでしょうか。
そこまで心を許せる友達がいない、という事だってあると(いや、多いと)思います。
そしてそれはそれぞれの価値観で決まることであり、片方がそう思っていたとしても、もう片方も同じ様に思っているとは限らないんですよね。
友達を大切に思うことは良いことです。でも、「私は貴方をこう思ってるんだから、あなたも私を同じように思って然るべきだ、そう思ってるに違いない」と、自分の価値観や思いを相手に押し付けてはいけないですよね。

世間では「KY」という略語があるそうです。
KYは「空気読めない」の略だという。
多くのケースの場合、多人数の場で、大多数の意見や意向に気付かない行動や発言をすると、KYだといわれたりするようです。
下手するといぢめに発展することもあったりするんじゃないかと。陰湿ですね。
でもこれって、「長いものに巻かれろ」な事なかれ主義を増長するように思っちゃうんですよねぇ…。
以前は「個性派志向」が流行ったことがある様に思うのですが、今はまた没個性志向に戻っているんでしょうか。
つまんないですね。

「空気を読む」のと「察する」のは、同じケースもありますが、根本は違うんじゃないかと思います。
皆が言ってる「空気を読む」は、周りの意見や行動に合わせる、その場を穏便に乗り切る術のように思います。
でも「察する」というのは、相手の言葉や様子から、真意を汲み取る努力をすることだと思うんです。
そこには、相手を思いやる気持ちも伴うのではないかと。

「空気を読む」のではなくて、「状況から自分の取るべき行動を判断できる」力の方が必要だと思いますし、対人に関しては「相手の気持ちを(思いやりの観点から)察する」ことの方が大切なのではないかと。

…というより、私はそういう人になりたいな、と思います。

ところで、「踏み込まれたくないこと」に気付かずにズカズカ踏み込んで来ようとする、デリカシーのない人に対しては、やっぱり
っていうか、それくらい察しろ。
って言ってあげたほうが親切なんでしょうかね。
どうなんだろう。
友達であればこそ、はっきり言うべきなのかなーと思うこともあったり…。

うーん、難しいなぁ。
 
カテゴリー:漫筆   2008/03/28   このみ      
≪ 相手の興味を引くには?  |  「女の子のためのアニメディア イラ★コレ」 ≫

コメント送信フォーム


※ Eメールは公開されません
Loading...
 画像の文字を入力してください